2014年3月15日土曜日

うまれてないからまだしねない

 ぼんやりと前から感じてきたことは近年確信になってきて、やがてこの確信は時間が経てば僕の中で風化してしまう可能性もそれはもちろんはらんでいますが、今、今は、僕はやっぱり物語を、その可能性を溺愛しています。ただ、物語、と書く時注意しなければならないのが、俳優という台に乗った上の、という括弧書きがあって正確なニュアンスです。物語、の上に俳優がいるんではなくて、俳優、の上に物語があってその順は逆転しちゃいけないというルールを踏んだ上での、物語、を僕は溺愛しています。

 自分で書いてもおかしなことだと思います。
 お芝居はそれを上演する時普通台本、というものがまず先にあります(いろんなやり方あるけど)。その台本に書かれているのは(まあいろんな意見は置いといて)基本的に物語です。俳優は配られたそれ(だいたいA4の紙数枚。商業演劇では既にブックとして綴じられてる場合もありますね)を手で受け取り、文字を目で見、脳で認識し、口に出す。そういう順を踏みます。だから、お芝居を創作する時は、必ず物語(台本)が先に出発します。劇作家が重宝される理由はその先発の役割を担うからです。でも劇作家は、これが、上演、となった途端にその役目を終えます。なんでかというと上演は、俳優に任された場だからです。で、この、俳優に任された場、であることについての批評的な視点を作品に込めてついぞ演劇は揉み合って高め合ってたまに共倒れして、きました。

 例えば太田省吾さんが沈黙劇、という台詞のない演劇を発表していますが、これはまさに言葉を封じ込めることによって現前の俳優をのみそこに強調する、という先鋭的な手法でした。耳で聞こえる言葉はない。でもなんだか、現前の俳優の身体を見ていると、そこになんでかわからないけれど言葉が物語があるように感じる、という、まさに、俳優に任された場、を提供なさっていたのではないでしょうか。
 また、ピーターブルックははっきりと、舞台上には人がいるだけでいい、装置も何もいらない、と語っています。これも、俳優に任された場、であることを強調しています。
 またあるいは、台本、を一切抜き取って、劇場やあるいは野外でリアルタイムで起こる事件性だけに着目したものもあります。即興劇なんてものもありますね。厳密に先の内容とは違いますが、寺山修司の功績は、こうした現前の事件性、に着目することによって、俳優に任された場(つまり演劇)を批評しました。で、こういう分野は主にダンスや他のアートに取って代わられた印象が僕には強いです。即興劇が流行らない理由、あるいはしばしばダサい理由は、俳優は決して作家ではない、という自明が世間一般に浸透してきたからだと思います。無論、質の高い即興劇もあるでしょう。それはつまり、その俳優がたまたま優れた作家的能力を備えている、ということなのだと思います。

 このように、まさにいろいろと、この他にもいろいろと(現役の日本人作家にも触れたいところですが、それはなんとなく僕の生理的に批評家におまかせしたいのですね)いろいろなやり方で、大きいテーマ「上演する演劇は、俳優に任された場(つまり演劇)」は作家達によって考えられてきました。で、僕もそれについて考えています。答えはでないけど。まあいいでしょう。とにかく上演する演劇は、俳優、が必要なのだということです。

 で、ここで僕の話になってしまいます。僕の劇は文字や画像や映像を使うことが多いのですが、そしてこれはたぶんこれからも(形を変えながらではあるけれども)やりますやるんですが。これについて、なんで?とかどうして?とか演劇的に間違ってる、とか言われることもあります。いろいろな意味合いがありますが、まず端的に言って僕にとって文字や画像や映像、あるいは光や影は、紛れもなく「俳優」だからです。ああ、僕は狂ったわけではありません。とにかくどうやら僕は、あらゆる問題を擬人化するのです。なんでかは知りません。
 一度、これは桜美林大学の演劇のスタッフ向けワークショップでやった演目ですが「ゴドーを待つ人もいない」という作品をつくりました。この作品は人間が一人も出て来ない、という作品です。俳優不在の演劇、というキャッチフレーズで。どうやって上演したかというと、舞台に2脚のイスだけが置かれていて、奥の壁にプロジェクターから文字が投写される。台詞が。例えばこんな感じ。左のイスと右のイスは向き合って置かれています。左のイスにスポットが当たって



左のイス:あたしには
あなたが動けないことが

驚きで
ならない
あたしは
やろうと思えば
こんなことも

と投写されたら左のイスの(なんらかの仕掛けで)背もたれが揺れます。



こんなことも

と投写されたら左のイスは(なんらかの仕掛けで)移動します。


できるけど
あなたには
できない

そうすると今度は右のイスがにスポットが当たって


右のイス:君は
若いのに
すごいわ
俺は
なんかいろいろ
ダメだわ
昔は
君がここに来る前は
俺だって動けたんだわ 


とか投写されたりするっていう。そういう内容でした。これ、キャッチフレーズは俳優不在の演劇、なわけなのですが、僕にとって俳優はいたのですね。それがこの2脚のイス、そして文字、さらにいえば舞台上の仕掛け達、です。

 さて、それで最初の話に戻るのですが、とにかく僕は今物語を溺愛しています。それはつまり「俳優」をないがしろにするっていう意味じゃ全然ないことは上記の文からなんとなく伝わってくれると信じます。で、僕は物語を溺愛しています。(俳優という台に乗った上の)物語が。その溺愛するそれがいったいどこまで行くのか。俳優やスタッフ達と一緒に愛でながら(その愛で方は様々なやり方で)うまれてないからまだしねない、はつくられています。