2013年12月6日金曜日

演劇で架空の街をつくろう、というワークショップ

12月に山形県新庄市で親子でも参加可能なワークショップを行います。


文字が小さいので追記12月6日22時30分
「演劇で架空の街をつくろう」日常からは少し遠いところにあると思われがちな、演技、演劇は、実は今まで(ほとんど)誰しもが、お遊戯会などの特別な機会でなくても、経験したことがあります。それは、おままごと(ごっこ遊び)と呼ばれたり、かくれんぼ(鬼を演じます)と呼ばれたり、ケイドロ(警察と泥棒を演じます)と呼ばれたり、そう、身体を使って役割を担う遊びは全て演技・演劇です。実は(なかなかそのように思われませんが)演劇は、絵を描くことや、歌を歌うことほどの身近さで行うことができる芸術です。なぜならそれは、私たちが持っているとても身近な2つの能力に由来するからです。ひとつは運動能力、もうひとつは想像力のことです。子供や大人、分け隔てなく身体と想像力を駆使して遊んでみる。遊ぶ、という言い方が嫌なら「脳みそのトレーニング」と思っていただいても構いません。
演劇で架空の街をつくる。お菓子の家でもオレンジジュースの沼でもこんにゃくの床でもなんでも構いません。つくって、そこで演劇してみましょう。

【プロフィール】
1987年生まれ。
山梨県出身。
範宙遊泳代表・劇作家・演出家・俳優。
2007年、桜美林大学在学中に範宙遊泳を旗揚げ。
すべての作品の脚本と演出をつとめ、たまに出演もする。
2012年には、人間に焦点を当て取材を元に生い立ちから掘り下げて作品化するソロプロジェクト「ドキュントメント」を始動。
近作はプロジェクター投影の文字・写真・絵・映像・光と、俳優を組み合わせた独自の演出方法を確立し、映像や音楽の制作・オペレーションも手がけている。
代表作は「幼女X」「さよなら日本-瞑想のまま眠りたい-」など。
http://www.hanchuyuei.com
山本卓卓(やまもとすぐる)

2013年5月23日木曜日

2007年からさよなら日本までの演劇へのフィードバック 俳優論

桜美林大学の学生だった2007年に範宙遊泳を結成し6年間の創作体験を経て「さよなら日本−瞑想のまま眠りたい−」に至るまでに演劇から与った恩恵と苦痛と快楽と絶望と希望はそれなりのものであったし、これからもそれはそれなりのものであるとは思うけれど、ここで一端ちゃんと自分に直面していることを言葉にしてフィードバックしつつ前に進む必要がある気がして、それをここに書きます。

演劇はいったいなんだろう、ということは6年間ずっと考え続けた問いで、その答えを今出せるわけではないけれど、一応の今現在の腑の落としどころとして、演劇はきっと俳優やスタッフや観客や現在などの、現前にある 人 との応酬なのだと信じています。別の言い方をすれば、現在進行"型"コミュニケーションの芸術、といったニュアンスになります。もっと別の言い方をすれば、つまり僕が死ねば僕の演劇(コミュニケーション)は終わります。
そんなようなことをうつらうつらと考えながら、6年過ぎ、今現在に至りました。

とりわけ俳優とのコミュニケーションは僕を最も育てさせてくれ、最も傷付けてもくれました。一公演2ヶ月や3ヶ月も身体ひとつで勝負するのが演劇の創作現場ですから、それはもう、いろいろあるのでした。そのいろいろはあまりに瑣末なことだったりするので、ここに書いたってしょうがないけれど、たぶん、その瑣末さはしっかり僕の作品の中に反映されているだろうことは、気付いてもらえるような気もしているのです。ので、ここでその瑣末な事柄は書きません。
ただ、わかっているのは、6年間ずっと「装う」ことへの嫌悪感と怒りを常に感じていたことです。俳優に対してだけでなく、演出家である自分自身も「装って笑う」「装って媚びる」「装って楽しがる」「装って真面目ぶる」「装って調子を合わせる」ことを神経質に嫌いました。どうしてそれをそんなに嫌っているのかわかりません。「装う」ことは真実を隠すことで、事実、今の僕らには結局衣を剝がしたところで真実なんてない、空っぽな空虚な世代だ、というようなコンプレックスがどこかにあるからかもしれません。今、世代、と書きましたが、別に世代の話だけでなく、この空虚さは普遍的なものなのかもしれません(脱線します→ウディアレンのミッドナイトインパリという映画は、その時代に生きる人は、どうにもこうにもその時代と付き合っていくしかない、というようなポジティブな哀愁がありました。そういうの、好きでした)とにかく、なんでもいいから、中身、空虚であってもそれでいいから、とにかく、この2ヶ月3ヶ月だけは装わないでいさせて、装わないで、というようなことを僕は俳優に婉曲的に強います。
例えば、細かいことですが僕は稽古場で休憩時間は○○分で、○時に再開しますということをあまり言いません。僕が休憩できたと思った時間と俳優が休憩できたと思った時間は相対的です。休憩時間を設定しなくても、俳優は必ず稽古場に戻ってきます。それでも5分10分と経っても僕がなかなか稽古を再開しないので、その内に、俳優達はしびれをきらして勝手に諸々台詞を読んだり身体のチューニングをします。この時がはじめて休憩の終わった時です。他にも、たとえば、僕は稽古場でこのシーンどうしたものかと悩んでいる時、その様を別に俳優に隠しません。僕の悩みたいだけ悩ませてもらって、それを無駄な時間だと思いません。合理的に考えれば非効率的といえる時間の使い方かもしれませんが、決して僕は、物事が先に進まない時間が、必ずしも不要な時間だとは、断固として思いません。演出家である僕の悩みは、作品全体のウィルスです。俳優がそれを察する権利はめちゃくちゃあります。

でも、実は、この「悩み」というウィルスを俳優は嫌います。俳優たちは「ウィルスは必ず己を蝕むものだ」と思い込んでいるように僕には見えます。やっつければ抗体が出来上がっていく、というような発想を、悩みに落ち込んだ俳優はなかなか持つ事ができません。なぜかというとそれは紛れも無く(誤解を招きそうな言い方ですが)なんというか、俳優が、ウィルスそのものだからです。演出家にとって俳優が、すべての悩みの種、だと言いたいわけでは決してなくて、なんというか、劇は、やっぱり俳優が当事者であって、演出家は、それを外から眺めているだけなので、だから、演出家はそういう意味で医者的なポジションです。当事者である俳優は「悩み」を突き付けられたところで、やっぱりじゃあ「私たちどうしたらいいんでしょう?」ということになります。ここで、演出家が優れている必要があります。厳粛にそれを克服する作業が必要であって、そこで演出家が妥協をはじめると、作品は画期的な速度で悪しき方向に蝕まれます。僕の言い方をすれば「装いだらけの演劇」に成り下がります。だったら、じゃあ、そもそも悩まなければいいじゃないか、という選択肢に僕は消極的です。克服のない稽古場に、克明な 人 を描くことは絶対に不可能だと、6年間の創作体験の中で身にしみているからです。かといって別に、悩めば良い、というようなことでもありません。そういう ○○すれば良い という固執は「装い」を生んでいくだろうからです。とにかくその現場で「何か」と偶然出会えるか、しかもその「何か」をやっつけることができるか、万が一その「何か」に負けたとしてもそれを装わず潔い散り方ができるか、そういう、格闘技のような一面も創作にはあります。

自作の引用で申し訳ありませんが「さよなら日本-瞑想のまま眠りたい-」の劇中の台詞に下記のような箇所があります。
劇団員の大橋一輝が喋りました
「(略)・・・昔の方法論をね、方法論の表面だけ一人歩きして本質は、待って、って言ってるのに、本質はこう、足をとられてドブでね、もう、ドブですよ。ドブに足をとられて本質は、待って、って待って表面、表面待ってーって言ってるんですよ。なのに、表面は待ちませんから、ぐんぐんね、表面だけ、ぐんぐんどっか行っちゃうんですよ、で、明らかにね、この表面ってやつはね目的地見失ってんだなこれが。でもね、え、みたいな、え、全然迷ってないっすみたいな顔して強がるんだなこれが。その頃もう本質ってのはドブでね、あきらめてますよ。もう、実家に帰ろうって。本質は実家に帰っちゃいましたよ。それでもね、表面は全然気付いてないんだ、あれ、本質なんて、ありましたっけー、みたいな、ほんとにもうチンカス以下な奴になってしまったんですね」

上記の台詞は擬人法ばかりですが(僕は比喩や擬人法が好きなようです)今僕が書いていることも少なからずここに集約される気もしています。表面は、いとも簡単に装います。本質は、取り残されて、いじけて実家に帰っちゃう。表面と本質が合致してはじめて 方法 は生まれます。ちょっと前にこのブログで書きましたが(現在は非公開にしてる文章です)方法のための方法なんて、こんな間違ったことはないとはっきり今でも思います。表面だけが先に進んでいくような現場にはしたくないです。



俳優は、舞台上の自分が客席からどう見えているかを気にするはずです。僕はそれ自体悪い事だと思いませんが、自分がどう見えているかを気にするあまり「いったい自分が何を見ているか」を蔑ろにしがちです。僕はこの時、俳優がとても醜くみえます。これは僕の創作現場だけの話じゃなくて、観客として客席に座ってそういう俳優を目の当たりにした時にも、そうです。この醜さも、結局表面と本質のズレが招く病理です。で、もう一度言いますが、僕は俳優が客席からどう見えているかを気にすることを、全然悪い事と思いません。むしろ、それはそれで良い事だと思います。ただ、やっぱり本質的な部分「お前自身は何なんだ。お前は何を見ているんだ」ということを忘れかけている時、演出は、そこをちゃんと突っついていく必要があると、思います。

今、現時点で僕が「2007年からさよなら日本までの演劇へのフィードバック 俳優論」と題して書いてみたかったことは書きました(演出論のような気もしますが)。

で、ここから前に進みたいと思います。

「さよなら日本-瞑想のまま眠りたい-」はこういった僕の考えてきたことを少しでも対外的に言葉に出すのに適した、ちょっとした節目になるエポック的な作品だったと言えます。
STスポットとの提携公演ということで、館長の大平さん、副館長の佐藤さん、スタッフの皆さんお世話になりました。また、ご覧になってくださった皆様。観なかったけど少しでも気に留めてくれた皆様。言葉にしてくださった皆様。スタッフ、そして俳優、どうもありがとうございました。

コツコツがんばります

山本卓卓